こんにちは。多賀です。
三寒四温で春が来るを感じる今日この頃です。
論語の人気記事はこちら。「目上の人を敬う、こんな理由はいかがでしょう?(Gakuji1-2)」
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子曰わく、夏の禮(れい)は吾能(よ)く之を言えども、杞(き)は徴(しるし)とするに足 らざるなり。
殷の禮(れい)は吾能く之を言えども、宋は徴とするに足らざるなり。
文献足らざるが故なり。
足らば則ち吾能く之を徴とせん。(Hachiitsu3-9)
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先師が言われた。
「私は夏の礼をよく言うが、杞(夏の子孫の国)には証拠が足りない。
殷の礼もよく言うが、宋(殷の子孫の国)には証拠が足りない。
それはこれを伝える書物がないからだ。
ありさえすれば、私の言うことが正しいと証明する事ができるのになあ」
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孔子が「自分が大事にしていることが記されている文献さえあれば、伝えている事の正しさを証明できて、もっと理解してもらえるのに」と嘆いているのだろうか。
先人が言ってきたことを大事にしたいという想いと、なかなか伝わらない状況をもどかしく思っていたのかもしれない。
コーチングやコミュニケーションにおいても同じことが言える。
肌感覚や経験値で理解できることは、科学的エビデンスを取ろうとしても、変数が多すぎる。
これが正解!とビシッと書かれていたら、どんなにいいだろうと感じてしまう。
何度も言うが八佾は、コーチングという文脈では意訳しづらい部分が多く、私の主観がかなり入るので、ご了承を。
<論語とコーチング>
自分の考えや感情など、伝えていることが正しいと証明してくれる文献があったらどんなにいいだろう。
だけど、そんなものはないから何度でも言葉や表現・伝え方を変え、相手も理解しながら、諦めずに伝えるのだ。
~もうひとりの全く逆の意見を持つ君とともに~