こんにちは。多賀です。
冷え込んだ日々が続いています。
2023年1月最後の月曜日です。論語とコーチング、この辺は書きにくさを感じていますが、超訳を最大限に発揮して書いてみることにします。
また、日本で解釈されている論語と、今の中国に繋がっている孔子が生きた時代の論語が同じだとは思えない部分もあり、紆余曲折しながらなので、統一感はないかと思いますが、ご了承ください。
論語の人気記事はこちら。「目上の人を敬う、こんな理由はいかがでしょう?(Gakuji1-2)」
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子夏問うて曰わく、攻笑(こうしょう)倩(せん)たり、美目(びもく)盼(はん)たり、素以て絢(あや)を爲(な)すとは、何の謂いぞや。
子曰わく、絵事は素(しろ)きを後にす。
曰わく禮は後か。
子曰わく、予(われ)を起す者は商なり。始めて興(とも)に詩を言うべきのみ。(Hachiitsu3-8)
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子夏が尋ねた。
「『笑えば口元が愛くるしく、目はぱっちりと澄んで、白粉で美しくしている』という詩がありますが、何か深い意味がありましょうか?」
先師が言われた。
「絵で言えば、下地を白で仕上げているよ」
子夏は更に尋ねた。
「では知識や行動の下地として、礼があるのでしょうか」
先師が言われた。
「私の気づかなかった事を教えてくれたのは商(子夏の名)お前だね。はじめて一緒に詩を語り合えるようになった」
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弟子の子夏と孔子の会話。
孔子は詩を通じて教えていたので、子夏の詩の読み解きを聴き、嬉しいと同時に頼もしく感じたのだろう。
「下地がきちんと整っていなければ、美しい絵にはならない。」
「「礼」が下地なのでしょうか」
「このように語りあえるのは、嬉しいことだ」
詩の内容としては、「やっていることや、言っていることは、それまでの振る舞いで相手がどう受け取るかが決まる」という意味合いだろう。
またまた余談になるが、詩で湾曲的に伝えているのは、直接的だとやはり身の危険が及ぶことが多かったからではないだろうか。
<論語とコーチング>
下地がシッカリしているから、知識や言動は生きてくる。
やっていることや、言っていることは、それまでの自分の振る舞いで、相手がどう受け取るか決まる。
~もうひとりの全く逆の意見を持つ君とともに~