フリーライターの小林なつめです。
子育てに欠かせないとされる「当事者意識」。なんとなく感覚で分かっているつもりでいたけれど、最近「これが当事者意識…!」と実感できる体験をしたので紹介します。
「朝の支度はお任せ!」夫が1年以上こなしてきた毎朝のタスク
我が家では次子を保育園に入園させるまで、長子の朝のお世話は夫が担当していた。毎朝6時過ぎには長子を起こし、朝食を食べさせ、身支度をさせ、持ち物の支度をして、7時過ぎに保育園に送っていく。
私は次子の妊娠中は体調が悪く、一人で外出できなかった。つまり私が妊娠してから次子を保育園に入れた産後6ヶ月までの少なくとも1年以上、夫は毎朝このタスクをこなしていたという計算になる。
次子入園後の家事育児分担について話し合った結果、私が保育園の送り担当になってからも、長子の朝の支度は夫がすると決まった。次子の睡眠に配慮した結果だ。
とはいえ夫にとっては、これまで1年以上やっていた日課を続けるだけのこと。「当然何の問題もないだろう」と、私はたかを括っていた。
突如始まった連日のミス!夫の身に何が起きたのか…?
ところが私が朝の送り担当になった途端、夫は長子の持ち物の準備忘れを頻発するようになった。水筒の準備を忘れたり、体温を測っていなかったり、連絡帳を書き忘れたり…毎日何かしらのミスややり残しがある。
忘れっぽくてケアレスミスの多い私に対して、夫はよく物事を覚えていて、忘れ物やミスも少ないタイプの人間だ。だから私は「夫でもこんなミスをするのか…」と、意外に感じた。でもなぜ朝の送りの担当を外れた途端、忘れ物を繰り返すようになったのだろう。
そこで少し考えてみたところ、夫のミスには、家事や育児に最も大切だといわれる「当事者意識」が関わっているのではないだろうかと思い至った。
つまり、こういうことだ。夫はこれまで朝のタスクを全て1人で担っていた。朝のタスクは、子どもの「起床から園の送りまで」で完結する。しかし今回私が起承転結でいう「結」の部分にあたる「園への送り」を担当するようになった。
朝のタスクの当事者は、夫1人ではなくなった。そこで「1人でやらなくていい」と気が緩んだ結果、ミスを重ねるようになったのではないだろうか。
「当事者」が増えるとミスも増える
夫が「朝のタスク」への責任感やプレッシャーから解放されたのはいいことかもしれない。でも夫のミスはそのまま私のタスクとなる。
私は夫が長子の世話をしている間、次子のオムツ替えや離乳食の用意、食事の補助などをしている。夫が出勤した後には、食卓の片付け、ミルクの調乳・授乳、続けて保育園の支度をし…「さぁ登園だ!」と次子を抱き上げたところで、夫のミスが判明する。
眠たくて泣く10kg弱の次男を抱っこしたまま、水筒にお茶を入れたり、連絡帳を記入したり…それも登園時間のリミットと戦いながら。これはちょっとしたストレスだ。どうしてもその時は「夫が忘れさえしなければ…」とイラついてしまう。
時には「夫はわざと私にタスクを押し付けているのでは」とか「私が在宅仕事だから、ナメられているのかも」とかいう、被害者意識強めな考えすら頭をかすめる。
夫のミスに対する私の考え方
でももし逆の立場だったらどうだろう。私が外に働きに出ていて夫が在宅仕事だったら。私が夫の立場に立った時、同じことをする可能性は大いにある。
夫はどうだか知らないが、私なら場合によっては確信犯で、タスクの積み残しを夫に押し付けさえするかもしれない。考えれば考えるほど、夫のことは責められない。
だとしたらこの一件で夫1人を悪者にするのはやめよう。私にできるフォローはして、それでもイライラが募るようなら夫に伝え、その時々の最善策を模索しよう。私はそういう結論を出した。それからも夫は「うっかり」を続けているが、あまり深追いしないようにしている。
「当事者意識」を持つには相手への配慮と思いやりが必要
この一件で私は純粋に「当事者意識ってすごい」という感想を持った。直接的な当事者でないのに、当事者と同じように行動するのは、よほど意識しなければできない。相手の気持ちや立場への配慮、思いやりが大切だ。
夫婦での家事育児のシェアが難しく、「当事者意識」の有無が論点となるのは、ここのところがポイントとなっているのかもしれない。「育児の当事者同士なのだから分かっていて当然。なのに分かってもらえない」のは、とてもつらく、孤独を感じることだ。
もちろん日々の生活を回すためには、家事育児を夫婦でシェアしなければならない。でもタスクの分担以上に大切なのが、相手の気持ちを理解し、寄り添う姿勢だ。相手の気持ちを理解するためにもまた、「当事者意識」が必要となる。