心が伴わない「なんか胡散臭い」は見抜かれる(論語・八佾3-26)

心が伴わない「なんか胡散臭い」は見抜かれる(論語・八佾3-26)

心が伴わない「なんか胡散臭い」は見抜かれる(論語・八佾3-26)|リアンブルーコーチング舎

こんにちは。多賀です。

月曜日、論語とコーチングです。

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子曰わく、上に居りて寛(かん)ならず、禮(れい)を為して敬せず、喪に臨(のぞ)みて哀しまずんば、吾 何を以てか之を観んや。(Hachiitsu3-26)

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孔子先生が仰った。
「上位にいながら寛容でなく、礼の動作をしても相手を敬わず、葬儀に参列しても心から悲しまなければ、私は、何によって、その人柄を判断しようか」

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形だけの振る舞いでは、人に信用されず、尊敬することはできない。
それらを見抜く力が人間にはある。「なんか胡散臭い」と感じる能力で、それを見くびっていはいけない。

あくまでの心があってそれを表現するための形である。

 

<論語とコーチング>

誰かよりも上の立場になったら寛容さを持とう。相手を敬おう。悲しみを一緒に感じよう。
そうした心を大事にすることは、礼儀作法などの形を行うことよりも大事なのである。

胡散臭さは、見抜かれる。

 

~もうひとりの全く逆の意見を持つ君とともに~

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