「思い邪(よこしま)なし」の二つの解釈。取入れたら、何ができる?(論語・為政2-2)

「思い邪(よこしま)なし」の二つの解釈。取入れたら、何ができる?(論語・為政2-2)

「思い邪(よこしま)なし」の二つの解釈。取入れたら、何ができる?(為政2-2)

こんにちは。多賀です。
6月なのに暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか?

さて月曜日、本日は論語です。


子曰(のたま)わく、詩三百、一言以て之を蔽(おお)う。
曰わく、思(おも)邪(よこしま)無し。(Isei2-2)

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孔子先生が仰った。
詩経に書かれている詩の共通点を一言で言うのなら、自分の感情に素直で率直であるということ。

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一般的に「思邪無し」というと、稲盛和夫氏が大事にしていることが思い浮かぶ。
邪(よこしま)を辞書で引いてみると、「心がねじ曲がっている」「人として道を外れている」などが出てくる。
何を持ってねじ曲がっているか、道を外れているかは、儒教の考えが基になっているだろう。

これから言うこと、これから行うこと、現在の自分に邪な思いがないことが、うまく調和して成し遂げていくために大事だと捉えているようだ。

自分には邪な気持ちがなくとも、まわりは邪だと判断するかもしれない。

それでも言い訳せずに、「邪なし」と言い切れるほどに、常に自分に対して問いかけるのだ。

 

片方で、井波律子訳の「完訳 論語」(岩波書店)によると、思い邪なしとは、詩経に書かれている詩は、数のうえでもっとも多いのは恋愛詩であることを踏まえ、喜怒哀楽などの「高ぶる感情を純粋かつストレートに表現したものに他ならない」と読み解いている。

また、井波氏は「孔子が詩とともに音楽を深く愛したことを考えると、これらの詩篇は読むのではなく、歌われたとおぼしい」と綴っている。
歌うことによって、より詩に感情がのり、共感が起こったのであろう。

 

この二つの解釈は、かなり離れている。私も稲盛氏と同じように捉えていた。

自分の素直な感情に、邪な思いがなければ、それが一番いいのだろうが、あえて教訓的に捉えず、「孔子という人間の性格がわかった」、でいいのかもしれない。

 

<論語とコーチング>

詩経の300篇の詩には「思い邪なし」が共通点として挙げられる。
心がまっすぐであること。取入れるとしたら、何ができる?

 

~もうひとりの全く逆の意見を持つ君とともに~

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