周りは批判も提言も出来ないのだから、権力に溺れていないか自分で省みる(論語・八佾3-6)

周りは批判も提言も出来ないのだから、権力に溺れていないか自分で省みる(論語・八佾3-6)

周りは批判も提言も出来ないのだから、権力に溺れていないか自分で省みる(論語・八佾3-6)こんにちは。多賀です。

一日遅くなりましたが、めげずに続けていきます!
「論語とコーチング」です。

周りは批判も提言も出来ないのだから、権力に溺れていないか自分で省みる(論語・八佾3-6)論語の人気記事はこちら。「目上の人を敬う、こんな理由はいかがでしょう?(Gakuji1-2)」

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季氏 、泰山(たいざん)に旅す。
子、冉有(ぜんゆう)に謂いて曰わく、女(なんじ)救うこと能(あた)わざるか。
對(こた)えて曰わく、能(あた)わず。
子曰わく、嗚呼、曽(すなわ)ち泰山を林放(りんぼう)にも如かずと謂えるか。(Hachiitsu3-6)

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岸身の程も弁えず、泰山の神を祭った。
先師がこれを批評して、冉有に言われた。
「君は、季氏が魯公をないがしろにしているのを何とかできなかったのか」
冉有は「私にはできません」と答えた。
先師が言われた。
「ああ、すると君は、泰山の神(魯公)が、あの未熟な林放にも及ばないと思うのか」

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権力をだんだん持ってきた季氏が、魯公を馬鹿にするような行いをし、それに対して孔子が憤慨している。

弟子である冉有が近くにいたのに、それを止めることは出来なかったのか?と訊き、冉有の「できませんでした」の返答に、また怒りが込み上げる。

コーチングの考え方をここでするのであれば、孔子の怒りの元には、自分の弟子がどうにもできなったという残念な気持ちと、そこまで育てられない、または育てたとしても権力の前では通用しない理不尽さも、感じていただろう。

 

今回の論語は、孔子の言葉から学ぶよりも、人間というのは、おごり高ぶりの際限がなくなってしまうものだという、季氏とリーダーとしての自分を省みる文脈で超訳してみよう。

 

<論語とコーチング>

人間というのは、権力に弱い。自分がリーダーなどの権力を持つと、それがどこまで通じるのか際限なく使ってしまいたくなる。
使っている言葉、態度、周りへの接し方。
周りは批判も提言も出来ないのだから、権力に溺れていないか自分で省みよう。

 

~もうひとりの全く逆の意見を持つ君とともに~

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