こんにちは。多賀です。
月曜日「論語とコーチング」
直訳せずにこの論語とコーチングで書いているような、言わんとしていることを飛躍させて
メタファーのように意味づけて訳すことを、「超訳」というのでしょうか?
「それはいいように理解しすぎだろ~」みたいに思われるかもしれませんが、
私自身の修行?のようなものでもあるので、ご了承くださいませ。
子夏 、孝を問う。子曰わく、色難(かた)し。
事あれば弟子 其の労に服し、酒食 (しゅし)あれば先生に鐉(せん)す。
曽(すなわ)ち之を以て孝と爲(な)せるか。(Isei2-8)
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子夏が孝行について尋ねた。
先師が答えられた。
「親に向かっての表情は難しいものだ。
何か用事があれば、若い者が労力を出し、酒や食事があれば、まず先輩にすすめる。
そういうことだけで、孝行といえるのだろうか」
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何かを目上の人にする時と、親孝行との違いはなんであろうか?
ただ行動で示すだけではなく、相手を思いやる表情があることが大事であるのだ、と。
表情は心の現れでもある。
正直なところ現代において「孝」をビジネスに翻訳するのは、大きな葛藤を感じる。
無条件に親や目上の人を認められる価値観ではないからだ。
だから、論語とコーチングに超訳する際には、一つのキーワードを拾って、それを使うという
超超超超訳である(汗
<論語とコーチング>
自分がどんな表情をして周りの方と接しているか、気にしているだろうか。
特に年齢を重ねたベテランシニア社員の行動や判断が遅いからと、
イライラせずに穏やかな表情で接したいものだ。
部下や後輩など、こちらに対して気を遣う必要がある場合にも、
自分がどんな表情をしているのか意識しよう。
~もうひとりの全く逆の意見を持つ君とともに~