こんにちは。多賀です。
新しい門出を迎える準備がはじまった3月半ば。
年度終わりと年度始まりへの対応でバタバタさせて頂いています。
今日の論語も、新しいチームをつくろうとしている場面と見ると、また面白さが出てくると思います。
論語とコーチング一覧はこちら
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孟武伯問う、子路仁なりや。
子曰わく、知らざるなり。
又問う。
子曰わく、由や、千乗の国 、其の賦(ふ)を治めしむべきなり。其の仁を知らざるなり。
求や如何 。
子曰わく、求や、千室(せんしつ)の邑(ゆう)、百乗の家 、之が宰たらしむべきなり。其の仁を知らざるなり。
赤や如何 。
子曰わく、赤や束帯して朝に立ち賓客と言わしむべきなり。その仁を知らざるなり。(kouyatyou5-8)
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孟武伯が尋ねた。「子路は仁者でしょうか」
孔子が答えた。「仁者であるかどうか分りません」
また同じことを尋ねた。
孔子が答えた。「由は千乗の国の軍事を司らせるだけの能力はあるでしょう。仁者かどうかは分りません」
「求(冉由)はどうでしょうか」と尋ねた。
孔子が答えた。「求は千戸の邑か百乗の家の執事なら十分任務を果たせましょう。仁者であるかどうか分りません」
「赤(公西華)はどうでしょうか」と尋ねた。
孔子が答えた。「赤は正装して朝廷にたって、来客の応対ができるでしょう。仁者であるかどうか分りません」
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孟武伯は小さいころから、孔子が「仁」を大事にしている人として知っていたようです。
その孟武伯が、これから政界に出るタイミングでたくさんの弟子を持っている孔子の力が欲しくなり、自分の周りに置く人として、孔子の弟子たちの中で気になる人物に「仁」があるか、一人ずつあげて尋ねたシーンと思われています。
孔子は弟子それぞれの特徴を語りながらも、「仁」があるかどうかはわからないと言いました。
仁とは「思いやり」や「自分と同じくらい、または自分よりも相手を大事にすること」です。
孔子が「仁」を持っていると言ったのは顔回です。
その対比からすると、何かできる強みを持っているとしても「仁」とは別なのだとわかります。
しかしここで孔子が敢えて、弟子たちに仁があるか知らないと言っているのは、何かの含みがありそうです。
弟子たちを孟武伯から守っているのか、仁はそんなに簡単にわかるものではないと言っているのか。
また、ビジネスの文脈で言うのであれば、新しくリーダーになる人がメンバーを選ぶ際に「業務の遂行」と「思いやりの心」のうち、「思いやりの心」があるかどうかを先に問うのは、かなり斬新といえるでしょう。
孔子の機嫌を取りつつ、有能な人を周りに置いておきたい孟武伯と、弟子を近づけていいものか考える孔子の気持ちが見え隠れしますね。
<論語とコーチング> (※論語を素直に解釈したわけではなく、あくまでも超訳・私見です)
新任リーダーがベテランリーダーに尋ねた。「Aさんは思いやりの心を持っていますか?」
ベテランリーダーが答えた。「分からないね。」
新任リーダーは再び尋ねた。
ベテランリーダーが答えた。「Aさんには、大規模プロジェクトのマネジメントを任せられるだけの能力はあるよ。思いやりの心があるかは分からないね。」
「では、Bさんはどうでしょうか?」
ベテランリーダーが答えた。「Bさんなら、100人規模のチームのオペレーションをしっかり回せるだろう。思いやりの心があるかは分からないね。」
「では、Cさんは?」
ベテランリーダーが答えた。「Cさんは、クライアント対応や社内調整をスマートにこなせる。思いやりの心があるかは分からないね。」
~もうひとりの全く逆の意見を持つ君とともに~