メンバーに伝えたいことが、てのひらにのる分量になっているか(論語・八佾3-11)

メンバーに伝えたいことが、てのひらにのる分量になっているか(論語・八佾3-11)

こんにちは。多賀です。

昨夜から風が強く、春一番でしょうか?
さて、月曜日、論語とコーチングです。

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或(ある)ひと禘(てい)の説を問う。子曰わく、知らざるなり。其の説を知るものの天下に於けるや、其れ諸を斯 に示(み)るがごときか。その掌(たなごころ)を指す。(Hachiitsu3-11)

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ある人が、禘の意味を尋ねた。
孔子が答えた。
「私は知らない。もしもその意味を知るものがいたら、天下で起こることはこれを眺めているようなものだ」
と自分の掌を指さされた。

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禘とは、前章にも出てきたが、孔子が苦手としている大祭のこと。
メンバーに伝えたいことが、てのひらにのる分量になっているか(論語・八佾3-11)社員が耐えているだけの会議になっていないか(論語・八佾3-10)

政治的なしがらみもたくさんあったようで、その意味を問われても孔子にはわからなかったのだろう。
知らないことをそのまま伝え、その複雑さを掌の大きさで表した。

それが今でも指掌 (ししょう)・・明白であること、簡単であることを表す言葉として残っているそうだ。

その時の場面がなんだか目に浮かぶ。

長い年月を経ると、どうしてそうするのか、そうなっているのかわからない事は多くなるだろう。
いろいろな人がそれぞれで意味づけをして、そのたびに変化しているが、なぜか残っているものだ。

伝統としての価値があればそれには意義がある。
一方で理由が誰もわからないのに、上が「やるんだ」と言ってやっていることはないだろうかと振返りたい。

 

<論語とコーチング>

先代がどういう経緯で選んで行ってきたのか、てのひらにのせて見れるくらいだと、みんなの納得度は得られるだろう。
これからやろうとしていることをメンバーに伝える時も、手のひらにのるくらいにして伝えよう。

 

~もうひとりの全く逆の意見を持つ君とともに~

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