子曰(のたま)わく、人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患うるなり。(Gakuji1-16)
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孔子先生が言われた。
人が自分を知ってくれなくても心配しないが、自分が人を知らないのを心にかけていろいろ心配する。
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以前、古典の言葉を引用して新入社員研修をしていることがあった。
その会社の風土が、そういうものを大事にしたので、伝えやすかったからだ。
古典を用いたのは、何か困ったり悩んだりした際に、昔から人間というのは本質なところでは変わっていないし、みんな同じところで悩んでいるから、あなたも乗り切れるよ。というメッセージと、短い言葉なので覚えやすいため、もしかしたら助けになる言葉として、どこかで思い出してくれるかもしれないと期待してのことだった。
誰もが自分のことをわかってほしい、頑張りや悩みを理解して欲しいと思うものだ。
では、自分はどれくらい相手のバックグラウンドに興味を持って知ろうとしているだろうか?
孔子は生涯にわたって、国を動かす人として名前を馳せることはなかった。
あくまでも国をよくすることを願って、もっと自分を知ってほしい、登用して欲しいと思っていたはずだ。
だが、生存中はそうなるどころか、命を狙われ追われる日々もあったという。
そういうことを経験してでさえ、自分が相手を知らないからだと言えるところが、孔子が門下生に「こうありたい」と慕われた理由でもありそうだ。
もう少しコーチング的な会話という点から言うと、ただ待っているだけで、察してくれないと嘆いていても、それは伝えない側の責任とも言えるし、同じように相手に自分から興味を持って、会話を行う必要もある。
どちらかの分量が多いのは、いいバランスとは言えず、お互いに理解し合おうとすることが大事だと私は思う。
順番が大事だとしているのが、有名なスティーブン・R・コヴィー「7つの習慣」の「第五の習慣:まず理解に徹し、そして理解される」である。
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<論語とコーチング>
するのではなく、言葉にして伝えよう。
自分は同じように相手のことを知ろう、理解しようと会話ができているだろうかと、心配になろう。
~もうひとりの全く逆の意見を持つ君とともに~