フリーライターの小林なつめです。
先日、勤務校の子どもに「先生は頭がいいでしょ」と言われました。
それは質問ではなく、断定的な口調で、子どもたちにとって「先生という存在」=「頭のいい人たち」という認識なんだということが窺えました。
学校の大人はみんな「先生」
学校では、勉強を教える「教員」以外の大人、例えば私のような司書を含めた事務職員や校務員もみんな、子どもに「先生」と呼ばれます。
学校の中の大人は、子どもにとってはみんな、「立派な」先生なのです。
私が初めて子どもたちに先生と呼ばれたのは、大学を卒業した1年目。司書の資格取得を目指しながら、非常勤の学校司書として小学校で働いていた、22歳のころでした。
教員の資格は持っていたものの、立場は「学校司書」。にもかかわらず司書の資格はまだ持っておらず、しかも非正規職員…
こんな何の肩書もない私が、「先生」などと呼ばれていいものなのか?最初はそんな戸惑いを抱いたものです。
しかしそれから10年以上の月日が流れ、今ではすっかり「先生然」として働いています。
とはいえ「先生だから頭がいいはず」という子どもの発想には、なんだか考えさせられてしまいました。
司書は頭を使う「ホワイトカラー」の職業
でも、この子どもの言っていることは、おおむね合っています。
実際、司書は事務方の仕事が大部分なので、頭脳労働中心、いわゆる「ホワイトカラー」の仕事だからです。(一方で小学校教員は、ブルーカラーの側面も、かなり大きいように思います。)
この子を含めた数人の子どもと話していると、子どもたちの価値観からすると、「先生」=「頭がいい」=「社会的価値の高い仕事」という図式があるのだとわかりました。
私は「残念なことに私は、みんなの年齢のころには、全然勉強ができなかったんだよ」と話しながら、子ども時代のある苦い記憶を思い出しました。
母に「清掃のおばさん」になってほしくなかった私
それは私が小学生のころ。当時専業主婦だった母に「私が清掃の仕事をするとしたら、どう思う?」と訊かれたのです。
当時の私にはドラマや映画の影響で、「清掃のおばさん」に「人生の落後者」のような、みじめなイメージがありました。それで私は母に「絶対やめて」と言いました。
私はこのことを、20年以上たった今も、忘れられないでいます。
それは、成長して、さまざまな経験を重ねるなかで「どんな仕事であっても、ありがたいものなのだ」という考えに行きついたからです。
そう思うようになってから「私はとんでもないことを母に言ってしまった」と、後悔するようになりました。
頭を使う仕事と、体を使う仕事
そもそも、主に頭を使う仕事が、体を使う仕事より「上」ということは絶対にありません。
私がホワイトカラーとして働いているのには「体を使うのが苦手」という、消極的な理由もあるので、体を使った仕事をする人のことを、心から尊敬しています。
だからこそ「ホワイトカラーがブルーカラーより偉い」という風潮には疑念があります。
元知事の失言から考えた職業差別
先日、元静岡県知事の川勝氏の発言が問題になったときには、かつて自治体職員として働いていた1人として、腹立たしい気持ちになりました。
川勝氏は新人職員への訓示として「県庁というのは別の言葉で言うとシンクタンクです。毎日野菜を売ったり、牛の世話をしたり物を作ったりとかと違って、基本的に皆さんは頭脳・知性の高い方たちです」という話をしたのです。
どんな釈明をしたとしても、取り返しのつかない、職業差別にほかならない発言です。
このような考え方をする人が知事のようなポジションにいてはならないし、ましてやその考えを公にするなど、もってのほかです。
今なおこんな発言をする人がいると思うと愕然としますし、私自身、ホワイトカラーの職業で身を立てている1人だからこそ、「ホワイトカラー代表」のような顔をして、話をしてほしくないと思いました。
私は、自分が頭脳労働をできるのは、いえ、生活できているのは、ひとえに肉体労働をして働いている人たちがいてくれるからだと考えています。
社会の1人ひとりが自分の役割を果たすことで、社会は機能しています。
子どもたちには「社会には、主に頭を使う仕事と体を使う仕事があるけれど、どちらが上ということはない。どちらも素晴らしい仕事だ」と伝えていきたいと、決意を新たにしたところです。
【参考】
■静岡 川勝知事 発言撤回“職業差別と捉えられるの本意でない” | NHK | 静岡県
もっと言えば、これまでは頭を使う仕事か、体を使う仕事かで分けられていましたが、どれだけ『心を使う仕事か』が入ると、バラエティさが増えていいかもしれない。
— 多賀恵子/エグゼクティブ・コーチ/経営者と部下のコミュニケーション改善家 (@liensbleu) September 24, 2024