フリーライターの小林なつめです。
現在(2024年前期)放送中の朝ドラ「虎に翼」を見ていますか?見てはいなくても、その評判は耳に入っているのではないでしょうか。
私はここ10年、朝ドラを欠かさず見ています。
「虎に翼」は徹底して女性に寄り添う姿勢の作品
朝ドラは視聴者に女性が多いことから、ヒロインを主人公に据えることが多いそうなのですが、「虎に翼」を見ていて思うのは、ここまで弱者としての女性にとことん寄り添った朝ドラは、かつてなかったのではないかということ。
リアルな女性差別の実態を取り上げた「虎に翼」の評判は賛否両論で、SNSや一部記事などでは「極端な男尊女卑」「男女の分断を招く」などと評されることもままあるようです。
しかし、私からすれば「それがどうした」でしかなく、何なら「もっとやれ」とすら思うし、多くの女性視聴者が同じ思いを抱いているのではないかとさえ思っています。
なぜ「虎に翼」の主題歌は男性が手掛けているのか
さて、「虎に翼」を見始めて数日、主題歌が耳に馴染んでくるころ。
私はこのドラマをフェミニズムのメッセージ性が強いドラマだと認識し始めており、そのうえで1つの違和感を覚えていました。
それは、「なぜこのドラマの主題歌は、男性アーティストによるものなのか」ということ。
これほど丁寧に女性に寄り添うドラマなのだから、女性アーティストを選ぶのが自然です。そこをなぜあえて男性としたのでしょうか。
そんなときに読んだのが、主題歌「さよーならまたいつか!」を手掛ける米津玄師氏のインタビュー記事でした。
この記事は、私の疑問を解消はしなかったものの、別角度での感動を生じさせました。
女性を神聖視することは卑下することと根っこは同じ
米津氏は私と同じように「そもそもなぜ男性である自分に話が来たのか」に疑問を抱き、「制作統括の方に打ち合わせで尋ねた」のだといいます。
ドラマの制作サイドからは「この物語の女性たちからは一歩離れたところで、俯瞰の視点で普遍的な曲を作ってほしい」と回答されていますが、米津氏は「およそ客観的に曲を作るのが不可能」と判断しています。
客観的な曲作りをすると「「がんばる君へエールを」みたいな曲になる」と考えたからです。
米津氏は、女性の闘いを描いたドラマに対して、このようなメッセージは「すごく無責任」で、「女性を神聖視するような形になるんじゃないかと思った。」と語っています。
さらには「神聖視するのも卑下するのも根っこは一緒な気がする」と。
これはまさに昔から現在に至るまで、一貫して変わらない「矛盾した女性差別の形」を、鋭く示唆しています。
私たち女性は、神聖視されながらもさげすまれ続けてきた。「女性神話」も「女性活躍」もそう。女性はいつも、持ち上げられながらも貶められてきたといっていいでしょう。
主題歌づくりのテーマは「キレ」
このような考えから、米津玄師氏は自分の属性が「男性」であるということを踏まえたうえで、あえて主観での曲作りをしたそうです。
そうしてテーマには「「ブチギレる」とか「怒る」という、強いエネルギーを表す意味での「キレ」」を据えています。
これもまた素晴らしい選択です。
なぜなら「女性は怒ってはいけない」「いつも笑顔でいなければならない」というメッセージは女性差別の1つであり、これを打破するために、私たちには「怒り」という強い、前向きな、エネルギーが必要不可欠だからです。
米津玄師氏の真摯な姿勢により名曲が生まれた
前述のインタビューにあったとおり、ドラマの制作サイドが「虎に翼」の主題歌に男性アーティストを据えたという選択そのものは、正解だったとは思えません。
しかも、結果としてドラマの制作サイドが想定していた「俯瞰の視点で普遍的な曲」、「客観的な曲」は作られていないません。
しかし幸運なことに、その男性アーティストとして、米津玄師氏を選んだのは、「大正解」だったといえます。
彼の研ぎ澄まされた感覚と真摯な姿勢がなければ、「さよーならまたいつか!」のような主題歌が生まれることはなかったでしょう。
【参考】
■米津玄師「さよーならまたいつか!」インタビュー|“キレ”のエネルギー宿した「虎に翼」主題歌 – 音楽ナタリー 特集・インタビュー
■博多大吉「朝ドラ受け」もモヤモヤ、過剰な描写が物議…『虎に翼』ネット批判につながる「4つの危うさ」(木村 隆志) | マネー現代 | 講談社