フリーライターの小林なつめです。
2024年の冬ドラマでは、「おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!」と「不適切にもほどがある!」という、コンプラや多様性をテーマとした作品が、話題を集めました。
両ドラマは似たテーマを取り上げていて、どちらの主人公も「昭和の価値観を持つ中年男性」だったことから、2つを比較しての論争も盛んでした。
いくつかの論争を見比べた結果、多様性やジェンダーという視点からは、エンタメ性の強い「ふてほど」よりも、マイノリティに寄り添う姿勢がみられた「おっパン」側に軍配が上がっているようでした。
「ふてほど」に不快感を覚えたのはなぜか
私も同様の意見で、「ふてほど」を見ていると、言葉にするのが難しい「もやもや感」を拭えない感覚がありました。それでもドラマを見続けていたのですが、最終話にはもやもやどころか、不快感すら覚えました。
最終話のタイトルは「アップデートしなきゃダメですか?」。
女性同士の上司と部下の、妊活をめぐる対立を取り上げ、キーワードは「寛容」…使い古された手法に、私は正直げんなりしてしまいました。
男性脚本家が女性同士の対立をエンタメ化した、この手の造りの物語は、これまでたくさん見てきたし、今更議論を重ねる必要もないくらいだと考えていたからです。
これまでマイノリティである女性は、マジョリティ側の男性にしいたげられ、我慢に我慢を重ねて生きてきた歴史があります。コンプラや多様性の叫ばれる現代でもなお、いや、だからこそ、苦しんでいる人も大勢います。
それなのにまだ、マジョリティが自分たちのためにマイノリティに寛容さを求めるのか…それもさも、自分たちは関係ないとばかりに「女性同士の対立」を仕立て上げて。とても悲しい気持ちになりました。
「ふてほど」には、女性だけでなく、マイノリティに対する誤解や、雑な描写も散見され、せっかくこのテーマにしたのになぜ?という、がっかり感がありました。
「ケケケ」主人公のセリフに救われた
そんなタイミングで私が見たのが「ケの日のケケケ」でした。
このドラマでは聴覚や視覚、味覚が過敏で、生きづらさを抱えている主人公の女子高生が、部活動への入部を強制する校則を乗り越えようとする姿が描かれていました。
ドラマでは、「求めているのは寛容さではなく、自分のご機嫌をとるための自由です」という主人公のセリフがあり、私はこの言葉に救われたような気持ちになりました。
「ふてほど」で落胆し、ささくれた気持ちを癒やされたように感じたのです。
マイノリティは、マジョリティに寛容さを求めているわけではありません。自分たちが努力できるだけの自由(余裕)を、求めているだけなのではないでしょうか。
マイノリティ側が努力を強いられる社会に変化を
「ケケケ」の主人公のような、マイノリティの子どもたちは、早く大人になります。いろんな経験(主に否定される経験)をするから、長く子どもではいられないのです。
「マイノリティ側が、マジョリティによって作られた社会に適応するための努力をさせられる」という構図です。
でもこれ、本来はマジョリティがすべき努力ではないでしょうか。
マイノリティは、ただでさえ、さまざまなハンディキャップを抱えています。
女性であれば、男性よりも小さく、力が弱い。障害のある人であれば、目や耳が不自由だったり、コミュニケーションが困難だったり。手足が動かず移動に問題があるなど…さまざまな理由で、マジョリティに最適化された社会に「生きづらさ」を抱えています。
そんな社会に適応しようと努力しても、無理があるのは明白です。
それなのに実際には、マイノリティが声を上げると、マジョリティに潰されるという現実があります。
「弱いものに寄り添う」ことは人としてあるべき姿なのに、なぜ圧倒的な力を持つマジョリティが、マイノリティの決死の訴えをしりぞけようとするのでしょうか。
マジョリティが「寛容さ」を持つだけでは、社会は変わりません。
マイノリティを生きやすくする「自由」こそ、彼らの求めるものです。そのためにまずは、マジョリティ側の人間が、マイノリティ側の不自由に、寄り添うべきではないでしょうか。
【参考サイト】
■「『ふてほど』より『おっパン』が一歩リード?」阿部サダヲと原田泰造が演じた“加害おじさん”の差
■『不適切にもほどがある!』は犬島渚の物語だった 時代の狭間で生きる人よ、“寛容”を胸に(リアルサウンド) – Yahoo!ニュース