フリーライターの小林なつめです。
先日、ある女性に、家庭の話を聞きました。
彼女の家庭では、「夫が家に帰ってこられないほど仕事が忙しく、自分もフルタイムで仕事をしているのに、家事育児の全てをこなさなければならない」といいます。
彼女は、1人で育児をするために、あらゆる努力をしているものの、結局のところ皺寄せは子どもにいくので頭を悩ませていると話しました。
その話を聞いた日、家で何の気なしに「大変だよね」と夫に話をしました。すると夫は「なんでその人の夫は、家事育児をしないの?」と聞き返してきました。
私は「そういえば、そうだな」と思いました。私は、知人が「夫と家で顔を合わせることはない」「夫は戦力外」と話しているのを聞きながら、「なんでそこまでして一緒に暮らしているんだろう?」と思いました。
でも思考はそこでストップ。「何らかの事情があるんだろうな…」と思うだけで、「知人の夫は状況を変えるべきだ!」とまでは思わなかったのです。
私は日頃、ここでコラムを書いているからこそ、女性には女性の、そして男性には男性の困難があることを知っています。だからこそ、どちらかの性別を非難する思考が、働きにくくなっているのかもしれません。
でも夫は、「知人の夫が家事育児をするために行動しないこと」を問題視し、さらに続けました。「家事育児に関われないことを仕事のせいにするなら、仕事を変えればいいのに」と。
知人の夫と同じ、男性である夫は、本来であれば妻である知人よりもその夫側に、より共感を抱きやすいはずです。それなのに性別の垣根を超えて、夫は女性側に同調しました。
そうできる理由は、夫自身が、時に仕事を投げ打ってでも、家事育児に取り組んできた人だからです。
夫は自分のキャリアよりも、子育てや家庭を優先した転職を、数回経験しています。その困難やつらさを知っていてもなお、彼は「男性(夫)も家事育児をすべき」という信念を持ち続けているのです。
世の中に数多くいるという「家事育児を妻に丸投げする男性」には、この視点はないんだろうなあと思いました。
夫はどちらかというと「男の絆」を重んじるタイプで、フェミニストとはいえません。それでも「自分のキャリアを向こう見ず、子育てや家庭を優先すべきなのは女性だけではないはずだ」ということが分かっているのでしょう。
結局は属性ではなく、経験や立場が人の価値観を形成するのかもしれないなと、考えさせられた出来事でした。